夜が白々とする頃寝に就いた

 吾々は、他合もないことを飽きずに語り合つて、夜が白々とする頃寝に就いた。

 三月七日 自分は、午近くに起きた。ふつと眼が醒めた時には、何時もの東京の部屋かと思つた。居るだけで好いのだ、その他には自分には用はないので、母から少しばかり金を貰つて街に出かけて見た。 好い天気である。 東京の家で、苛々しながら机に向つてゐたことを思ふと何だか可笑しくなつた。――今なら反つて落ついて仕事が出来さうな安らかさを感じた。 だがこゝでは「仕事」のことは考へまいと思つた。それを思ふと「家うちのこと」が、鉤になつて上顎に引ツかゝつた。そして、その他の空想を絶つた。一体この釣鉤は誰が垂れてゐるのか! それにしても相当腕の好い釣手に相違ない、糸をなぶり、藻をくゞらせてまで、巧みに竿を操る。岩間にかくれて、いくらか痛さにも慣れたからこの儘夢でも見ようとすると、どつこい! と引きづる。振り切る隙も与へない、チヨツ! もう首も振らない、尾も蹴らないから、引きあげるものなら好い加減に引きあげて呉れよ、妙な大事をとらないで――。 また、春が来ようとしてゐるではないか。 自分は、そんな風に荒唐無稽な不平を洩らしてゐると、虫のやうに想ひが縮んで行くばかりだつた。 あれらの自分の仕事は、まさしく鉤を呑んだ魚が、身もだきながら泥を浴びて放つ嘆声に他ならなかつた。感情は歪んだまゝに固まらうとしてゐる。顎をつるされ、口をあんぐりと開いたまゝ、欠伸もする、稀には気晴しの唱歌も歌つたりするのであるが、開閉を許されない口から明瞭な音声の出る筈はない、法螺貝の音ほどの高低があるばかりさ。 夕方になつて戻ると、静岡の叔母も来てゐた。五年前に死んだ父方の次男のTの未亡人である。Tは医者だつた。この叔母は、今では静岡の在で単独で薬局店を経営してゐる。

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