父のあしたの法要

 自分は、近いうちに静岡を訪れようと思つてゐることなどを話した。静岡には、老妓のお蝶がゐる。勿論お蝶には手紙も行つてはゐないだらうが、父のあしたの法要には出かけて来るだらう――さう思つたので自分は、さつき散歩に出かけた時お園の楼を訪れて彼女の消息を訊ねたのである。 誰と話をしても面白くなかつた。その上、家内の者はそわ/\として坐つてゐる者もなかつた。母だけが(おや、いつから眼鏡をかけるようになつたのか?)茶の間の火鉢の傍で帳面をつけてゐる。 自分は、箱のやうな奥の部屋に引つ込んで机の前に坐ることにした。――少しも酒を飲む気がしないのは吾ながら妙だつた。こゝで、こんな風に机に坐ることなどを自分は、ついさつきまでも思ひもしなかつたのである。 自分は、鞄からペンと紙を取り出して机の上に伸べたりした。 書くことを考へて見る――新鮮味に欠けたおそろしく不自由な想ひばかりが、傍見を出来ないやうに眼を覆つてゐる。それだのに自分は机に凭つてゐる。昼間、お園の処で少しばかり飲んだが、それも水のやうに白々しく今になつたらすつかり忘れてゐる。いつかうちのやうに、あそこの家で酔つたりなどしないで好かつた――そんなことまで思ふと、そこでも、この自家でも往々酒の上で演じた様々な痴態がまざまざと回想されて、ゾツとした。「××ちやんは何処へ行つたの?」「出かけたの?」と、母が妻にきいてゐるのが聞えた。にぎやかな夕食が始まつてゐた。「あたしも少しお酒を飲んだら、こんなに顔があかくなつてしまつた。」 のぞきに来た妻は、自分に飯のことを訊くと、自分は、もうひとりで済してしまつたと答へて、普段机に向つてゐる時と同じやうに素気ない表情をしてゐるので、妙な顔をして引きさがつて行つた。 屹度自分の眼は猜疑の光りに輝いてゐたに違ひない。――自分は、犯罪者のやうに夢を知らないおぢけた態度で周囲を見廻したり、平和な彼方のまどひに気を配つたりした。

— posted by id at 07:56 pm  

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