節句の朝

 前の日に片づけたのだと母が云つた雛の箱が床の間に載せてあつた。自分には女のきようだいがないので、これは祖母と母の昔の雛ばかりなのだが、そんなものが好く残つてゐたものだ。自分は、それに惑かれやうとしない心を無理に結ばうと試みた。 在るお雛様を飾らないと、節句の朝にお雛様は自らツヾラの蓋をあけ、行列をつくつて井戸傍に水を呑みに来る――祖母は、よく子供の自分にさう云つた。自分は、雛に関する愉快な思ひ出に耽らうとしたのだつた。祖母の話は、今の自分にも多少気味が悪い。 昨べ自分は、ふとそんな話を母に訊ねたら母は苦笑して、私は楽しみに飾つたのだ、その晩には十二時近くまでも起きてゐた――と寂しい慰めを求めたやうに云つた。今では、母と次郎だけの家庭なのに、この家の雛節句の宵はどんな様だつたらう……Flora がアメリカに帰る時に、自分達は雛を送つたことがある。母が不服さうな顔をしたが自分は、母の古い雛を一対混ぜて、あの祖母から聞いた話を戯談らしく云ひ添えたが、彼女は覚えてゐるかしら? 自分は、頬杖をして成るべく呑気な回想を凝らさうとしたが、如何しても自分の心はキレイにはならなかつた。 自分は、おそろしく、床の間の隅の母の手文庫に心を惑かれるばかりであつた。子供の時から見慣れてゐる楠の手文庫である。自分の心は、いつ頃からあれ[#「あれ」に傍点]をねらひはじめたか? 旅を想つたりしたのも呪はれた自分の頭の自責を逃れるための方便だつたのかも知れない。 自分は、激しい鼓動に戦きながら、ふらふらと其方に手を伸した。「書くことに迷つてゐる自分! 無能! 行き詰り! 苦し紛れ!」 つい此間、親不孝な男と称ふ題名の小説を文壇に発表して多くの嘲罵を買つた自分は、また同じやうな手を盗人になつて差し伸した。

— posted by id at 07:57 pm  

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